『斬鬼伝』に登場する数多の「人性の鬼」のなかで、涎臉鬼は間違いなく最も印象に残る存在の一つである。それは厚顔無恥、廉恥のかけらもない輩――しつこく付きまとい、手段を選ばず、屈辱を感じても何とも思わない人間を体現している。「涎臉」という語は、ある顔つきを鮮やかに描き出す。口元に涎を垂らし、顔にへつらいの笑みを貼りつけ、眼には羞恥の色がまったくない。
涎臉鬼は『斬鬼伝』第三回に登場し、鐘の斬鬼の旅路においてとりわけ手強い相手となる。その厄介さは武力の強さではなく、「面の皮が厚すぎる」ことにある――いかなる屈辱や打撃を加えようと、涎臉鬼は平然として付きまとってくる。この「無恥こそ力」という設定により、涎臉鬼は全書中最も社会的風刺の効いた鬼となっている。
一、涎臉鬼とは何か
「涎臉」の語義
「涎臉」という語は、漢語において厚顔無恥、恥知らずな人を指す。「涎」は本来よだれを意味し、転じて貪欲に欲する、際限なく欲張るという意に派生した。「臉」は面の皮である。「涎臉」を合わせると、へらへらと愛想笑いを浮かべ、しつこく付きまとい、拒絶されても辱められても平気でいる無頼の相を描き出す。
劉璋が「涎臉」をもって鬼の名としたのは、直截かつ的確であった。伝統的な中国社会では、「面子」と「廉恥」が社会秩序を支える重要な道徳の柱であった。人が「顔を捨てる」とは、道徳共同体のルール体系から脱落し、いかなる手段をもってでも目的を達しようとすることを意味する。涎臉鬼はまさに「道徳のルールから脱落した人間」の具象化である。
鬼の系譜における位置
『斬鬼伝』の鬼の系譜において、涎臉鬼は「品格の鬼」に属する。ある具体的な行為(盗みや殺人など)を代表するのではなく、根深い人格的欠陥を体現するのである。謅鬼の「虚偽」と比べれば、涎臉鬼の「無恥」はより剥き出しであり、齷齪鬼の「器の小ささ」と比べれば、涎臉鬼の「厚顔」はより横暴である。
涎臉鬼は「人性の鬼」のスペクトルの中間に位置する。大悪人のような恐怖を喚起するわけではないが、取るに足らない器の小ささよりもはるかに強い嫌悪を抱かせる。それは日常生活において最もありふれ、かつ最も始末に負えない種類の人間、すなわち無頼を体現している。
二、涎臉鬼の『斬鬼伝』第三回における活躍
登場と振る舞い
涎臉鬼は『斬鬼伝』第三回で本格的に登場する。面の皮が極めて厚く、死に物狂いで付きまとう性格であり、他人に拒絶されようが、嘲笑されようが、打たれようが罵られようが、涎臉鬼は笑顔を絶やさず、しつこく絡んでくる。恥とも思わず、むしろ誇りとし、「厚顔」を極限まで押し進める。
小説における涎臉鬼の振る舞いは極めて風刺的に描かれる。面と向かって辱めを受けると、直ちにへつらいの表情に切り替え、追い払われてもすぐに戻り、嘘が露見しても少しも恥じることなく新しい言い訳をでっち上げる。涎臉鬼の「涎」は口元に留まらず、その表情の隅々、言葉の端々にまで染み渡っている。
鐘、三度にわたり涎臉鬼と戦う
涎臉鬼は、鐘が『斬鬼伝』で出会う最初の「厄介な」相手である。厄介なのは涎臉鬼が強いからではなく、「恥知らず」だからである。鐘の威圧力も道徳的な感化力も、涎臉鬼にはまったく通じない。鐘の怒れる眼差しも宝剣も前にして、涎臉鬼は恐怖するどころか、へらへらと笑いながら近寄って話しかけてくる。
この対峙は極めて強い風刺を含んでいる。鐘は凛然たる道徳の力を体現し、涎臉鬼は道徳に対する完全な免疫を体現する。「正」が「不正」に遭遇すれば制圧できるが、「無恥」に遭遇したとき、伝統的な道徳の手段は力不足を露呈する。
三、無恥の徒の肖像
涎臉鬼の三つの特徴
劉璋の筆になる涎臉鬼は、「無恥の徒」の三つの特徴を的確に捉えている。
第一に、羞恥心がない。正常な人間は拒絶されたり辱められたりすると決まりが悪くなり、引き下がるものである。涎臉鬼は違う。「面子」という概念がなく、「羞恥」という感覚がないため、何度拒絶されても、何度でも舞い戻ってくる。
第二に、仮面を使い分ける。涎臉鬼は一つの顔で天下を渡るわけではない。相手と状況に応じて、常に表情を変える。目の前では恭維し、背後では利用する。強者にはへつらい、弱者には虐げる。その「涎臉」は万能の仮面である。
第三に、無恥を策略とする。涎臉鬼の「恥知らず」は天性の愚鈍によるものではなく、意識的な策略である。無頼に直面した正常な人間が退くことを、涎臉鬼は知っている。勝てないからではなく、「割に合わない」からである。涎臉鬼はこの「君子は小人を避ける」という心理を逆手に取り、無恥を武器に変える。
清代社会の無頼群像
涎臉鬼の形象は架空のものではない。清代の社会では、市井の無頼、地痞、ゆすりたかりの輩が各地に蔓延し、末端社会において頭の痛い存在であった。彼らは大清律例の重罰条項に触れることは少なくとも、無頼な手段で近隣を悩まし、商売人をゆすり、善良な民を虐げた。
劉璋がこうした人物を「涎臉鬼」として抽出したのは、社会現象の記録であると同時に、人間性の弱点への深い洞察であった。人が廉恥を完全に捨てたとき、ある種歪んだ「自由」を獲得する。道徳の束縛を受けず、ほしいままに振る舞える「自由」である。
四、含司馬と負先鋒の戦術
正攻法の苦境
鐘が涎臉鬼に対処する過程は決して順調ではなかった。含冤司馬(鐘の謀略型の副将)と負屈将軍(鐘の先鋒型の副将)は、正面からの交戦で苦戦を強いられた。涎臉鬼の「厚い面の皮」のせいで、通常の威圧や説得はまったく効をなさなかったのである。含司馬の義正辞厳なる言葉に対し、涎臉鬼は笑顔で応じ、負先鋒の武力による威嚇に対し、涎臉鬼は頭を抱えて逃げ出したかと思うと、すぐに舞い戻ってくる。
この設定は極めて皮肉に満ちている。正義と力が無恥を前にして、一時的に手も足も出なくなるとは。
矢もて涎臉鬼を射る
ついに鐘は、極めて象徴的な手段をとった。矢を以て涎臉鬼を射るのである。矢は中国文化において「直」と「鋭」を象徴し、「歪み」と「鈍さ」に対抗する利器である。鐘の矢が涎臉鬼の「厚い面の皮」を射抜く場面は、正義の鋭利さがついに無恥の厚い殻を貫くという暗喩である。
この場面は『斬鬼伝』のなかでもとりわけ見事である。涎臉鬼の面の皮がいかに厚かろうと、鐘の神矢の前では結局貫かれる。それは無恥の徒が一時は得意になっても、正義の審判からは逃れられないことを暗示している。
チーム連携の意義
注目すべきは、涎臉鬼を斃したのが鐘一人の功績ではないことである。含司馬が策を巡らせ、負先鋒が前線で突撃し、鐘が最後の矢を放つ。この連携の過程は、無恥の徒に対処するには知恵、勇気、果断の三点が揃わねばならないことを示唆している。
五、涎臉鬼の文化的寓意
「面子」文化の裏鏡
涎臉鬼の深層にある文化的意義は、それが伝統的な「面子」文化の裏鏡であることにある。中国の伝統文化は「面子」と「廉恥」を極めて重視し、それこそが人間と禽獣を区別する根本であるとみなしてきた。「恥を知る」ことは儒家の修身における重要な徳目であり、「無恥」は最も重い道徳的非難であった。
涎臉鬼の存在が示すのは、「面子」の文化が極端に走ったとき、面子を完全に捨てた人間がかえって不均衡な優位性を獲得するという逆説である。正常な人間は「面子」の制約のもとで規範に従うが、無頼は制約されないがゆえにのうのうと生きる。この「悪貨が良貨を駆逐する」現象こそ、劉璋が涎臉鬼を通して暴き出した社会の病巣である。
時代を超える暗喩
涎臉鬼の風刺の力は、三百年を経た今も衰えていない。職場で厚かましく手柄を掠め取る同僚、ネット上でしつこく絡む揚げ足取りの輩、商売において借金を踏み倒すたちの悪い債務者――彼らは皆、涎臉鬼の現代の末裔である。
鐘が涎臉鬼を射る物語は、次のことを我々に思い出させる。無恥の徒に対しては、道徳的な説教だけでは何の役にも立たず、「鋭利」な手段をもって反撃しなければならない。善良さは弱さの言い訳ではなく、正直さも譲歩の口実ではない。涎臉鬼に対処するには、鐘の矢しかない。すなわち、正しく、鋭い一撃である。
涎臉鬼は我々に教える。世で最も対処しがたいのは遠くにいる猛獣ではなく、付きまとってくる無頼である。人が廉恥を捨てたとき、奇妙な「無敵」へと変ずる。顔を失うことを恐れぬ者には、手の打ちようがない。鐘が矢で涎臉鬼の厚い面の皮を射抜いたのは、一匹の鬼を斃しただけでなく、古今不変の道理を宣言したのである。無恥には常に代償があり、厚顔には必ず天罰が下る。